メタボののらりくらり日記

こんにちは、メタボです。3月31日に定年退職しました。今のところ太っているだけで健康ですが、いつ、何がおこるかわからないですよね。そこで日々の事柄を記録しようとブログはじめました。よろしくお願いします。

父ちゃんへ。

私は三番目の3女として生まれた。

 

当時、産み月になると嫁は実家にもどり、産婆さんが

取り上げるのが普通だった。

私は「へその緒」所持していない。

子だくさんの時代、へその緒なんて意味なかったんだろう。

 

家督を継ぐ、男の子が欲しかったおじいちゃんは

「また女か、捨ててこい」と言ったそうだ。

そんな昔話を聞いて「もしかしたら高貴の出なんだったら

誰かがいつか迎えにきてくれるかも」って妄想して

楽しんでいた。

 

役ただずの3女だが、末っ子として、両親を独り占め

していた。

母ちゃんの股の間に手を入れて寝るのが習慣だった。

 

また父ちゃんとは藁で作ったでっかい布団に入り

外に持ち出し、空の星を眺めたのも楽しい思い出だ。

 

農業と林業で生活できた時代に私は生まれた。

 

父ちゃんは、長男だったため、下の兄弟姉妹の面倒を

よくみた。

 

嫁に行くと言えば、山の木を売って花嫁道具を準備した。

 

東京で結婚した弟さんは商売が行き詰まると

帰省し酒の勢いを借りて父ちゃんに

金かせとお願したらしい。

 

父ちゃんは農繁期が終わると、弟さん家に泊まっては

東京見物し楽しんでいた。

 

うちにはいつも親戚や木こりが寄っていて

囲炉裏で話をしていた。

また、風呂のない家の者は、風呂に入りに来ていた。

 

時代が変わり、木を売るだけでは現金を得ることが

出来なくなった。

 

村は織物で生計をたてるようになった。

素人の父ちゃんも家の側に織物工場を造った。

従業員一人、夫婦で一日中織物を作った。

 

織物にはA反、B反・・と出来栄えによって

ランクがつく。

A反が高値で取引される。

織物の機械の調整で、出来栄え違ってくる。

機械が故障すると、不器用な父ちゃんは修理できない。

 

父ちゃんには機械を見てくれる友達がいた。

この友達と気が合うらしく、母ちゃんが怒っても

二人でよく出かけていた。

山に行ったり、台湾旅行したり、友達は家にも

しょっちゅう、遊びにくるので、母ちゃんは

工場仕事を一人でしなければならなくなる。

 

結婚当社からずっと母ちゃんは父ちゃんに

ブス扱いされていたらしい。

暇さえあれば遊びに行ってしまう父ちゃんに

不満が募っていた。

 

両親が険悪になると私は泣いた。

 

姉たちと私に、父ちゃんの悪口を愚痴り

洗脳した。

 

父親って思春期の子供にとってはうざいものだ。

 

父ちゃんをのけ者にした時期があった。

 

姉たちが嫁いでいき、父ちゃんも年をとっていった。

 

父ちゃんが65歳になった時「これから年金が貰える」

嬉しそうだった。

 

いつものように友達が家に遊びにきていたある日

工場からなかなか戻らない父ちゃんを不審に思い

友達は工場に様子を見に行った。

 

工場でうずくまっていた父ちゃんを抱きかかえ

家の縁側に運んできた。

 

ちょうど、私が勤務を終え、車と止めていた時

玄関から、母ちゃんが飛び出してきて

私を呼ぶ、その形相に異変を感じた。

 

父ちゃんは縁側であおむけになっており

とろれつのまわらない口で「タバコくれ」と

行っていた。

 

すぐに町の病院に運んだ。

 

救急室内のベッドに寝かされた父ちゃんのシャツが

ハサミで切られる。

「どうした?」のんびりと医師が診察する。

CTで脳出血を確認すると医師は慌て「こりゃダメや。

脳外科に搬送や」

事態は深刻化した。

 

視床下部の出血。

治療は脳室ドレナージ術。

額から二本のチューブがでていた。

 

父ちゃんは重度の後遺症が残った。

左半身麻痺(右側も軽度)、認知症

一人では寝返り、起き上がりが出来なかった。

食事は介助で食べるが、むせた。(嚥下障害)

言語障害もあったが、聞き取ることはできた。

でも自分からは喋らない、口数が減った。

 

若い看護師が腰の曲がった母ちゃんに「これからは

あなたが車椅子にのせないといけないんですよ」と

言ったのを聞いた私は怒鳴った。

現実を把握できない、教科書どおりの若い看護師の

レベルの低さを悲しんだ。

 

父ちゃんの行先は家ではなく、老健施設を私は選んだ。

 

食事介助すると咳き込み、ごはんが飛び散る。       「嫌な顔して食べさせるな」入所者に怒られた。

 

施設にお願したことは褥瘡をつくらないの一つだった。

褥瘡ができるのは、不十分な栄養管理と運動不足。

言わば、施設のレベルがこれで分かる。

 

老健施設はお金がかかる。

老人ホームに移ることにした。

廊下を渡れば老人ホームがある。

 

車椅子に乗った父ちゃんは、何を思ったにか

杖で母ちゃんをたたき始めた。

 

きっと、俺をこんな所に入れやがって。

 

以後、母ちゃんは父ちゃんを見舞うことはなくなった。

 

 医師から「口から食べるのは無理。胃瘻か胃管か決めて」

私は胃瘻に知識がなかったので、取りあえず胃管を選んだ。

胃管は二週間事に入れ替えする。入れる時は痛い。

常に鼻に異物がはいっており、生きるためだけの栄養注入。

痰が減るわけでもなく、鼻から口からチューブを入れての吸痰。

胃管を抜かれると困るので、手にはミトンで拘束される。

 

数回、肺炎を起こす。

 

胃瘻にしたら少しは楽になるかと胃瘻増設をお願いした。

 

「家に帰るか?」

喋らなくなった父ちゃんが「おう」と返事する。

 

年2回、一週間の予定で外泊した。

施設からはエアーマットを借りた。

 

オムツを変えて、向きを変えて、日に三回、胃瘻から栄養を

入れる。

動かなくなった細い脚は変形している。

母ちゃんをたたいた頃の力は腕にはない。

喋らないから、母ちゃんも父ちゃんの世話をした。

 

痰がからむと私が吸引したが、父ちゃんの歪んだ

顔は忘れない。

 

寝たきりになって10年。

 

「血圧が下がった」と施設から夜中電話が入った。

3日後に死んだ。

 

入院先は救急病棟だったから、早く遺体を処分したかった

ようだ。

病院が呼んでくれた配送業者は、黒い袋で荷物を包むが如く

ストレッチャーに乗せて、ワゴンに入れた。

私は看護師さんに押されるように事務所に行き、支払いをした。

”物扱い”した業者、悲嘆にくれる遺族を急かせた看護師。

 

父ちゃんの通夜、葬式には300人程の方が来てくれた。

始めて見る父ちゃんの従兄や親戚。

 

誰かわからないけど頭を垂れた。

 

家で執り行う大きなイベント。

 

長い闘病生活だったのに、いつかくる最後を

考えてもいなかった。

 

村の女衆がまかないをし、男衆が会場準備、受付

交通整理、電話対応。

慌ただしく葬儀業者と契約を私は行っていく。

 

父ちゃんの死に顔見る余裕もなかった。

 

家族がどんな様子で何していたのかも知らない。

 

けっして仲の良い夫婦でなかった母ちゃんは

どんな思いをしていたのかな?

 

10年、寝た父ちゃん。

そこに、人として幸せはあったのかな?